2017.04.03 Mon

Written by EDGE編集部

アジア

海を渡った指導者たち〜第9回・若杉秀俊(広州富力U-12監督)後編

写真:池田宣雄

若杉秀俊(以下、若杉)は、中国スーパーリーグ広州富力のユースアカデミーに招聘されて、U-12チームの監督を務めている。2016年から正式に立ち上がったユースアカデミーに、いの一番で招聘された指導者だ。(文・写真 池田宣雄)

【前編はこちら】

「2016年の1月下旬に、在籍していた横浜F・マリノスアカデミーとの契約を更新しようとしていた時に、喜熨斗さん(喜熨斗勝史:広州富力トップチームコーチ)から声を掛けて頂きました。マリノスの契約書にはもうサインしていて、あとは提出するだけだったのですが、なぜか数日、私の手元に残ったままでした。マリノスでの指導は充実していたのですが、40歳を目前に『このまま続けるのがベストの道なのか?』と少し思うところがあったからだと思います」

若杉は5歳の時にサッカーに出会う。通っていた幼稚園と提携するサッカースクールでボールを蹴り始め、地元名古屋の少年団から、守山FCというクラブチームで中学・高校・浪人生時代までプレーを続ける。

「少年団の頃はキャプテン翼の影響で、本気でプロサッカー選手になると公言していました。でも、守山FCのユースチームで揉まれていた頃に、選手になるのは難しいと悟ってしまいまして。ちょうどその頃にJリーグが始まって、コーチやスタッフとしてプロの世界を目指すのもアリかなと思っていました。高校生の頃から指導者の道を意識していましたね」

浪人生活の末に早稲田大学に進学した若杉は、ア式蹴球部ではなく同好会のヒューマンFCに所属。その傍らで少年サッカーの指導にも携わっている。

「Jのクラブに伝手がない自分にとって、指導者として生きるためには教員になるしかないのかなと、大学では教職課程も取っていました。上京する際にも教員である父親に、教員として名古屋に戻ってくると約束していましたし・・・」

若杉は、教職課程の必修単位の取得を断念することになる。

「大学2年の時、木曜日の5時限目の必修授業と、少年サッカーの指導が重なりました。私が現場に行けなければ、子供たちはボールを蹴ることができません。悩みましたが、私は大学の授業ではなくサッカーを選びました。必修科目を諦めて、教員への道を断つことにしたのです。これがターニングポイントとなり、将来は意地でも『プロの監督』として食って行くと決意しました」

 

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その後、大学院に進む傍ら、少年サッカーの指導も継続する。すでにJFAのC級ライセンスを取得していた若杉は大学院を修了した後、さらなる高みを目指して渡英する。

「大学院修了後に名古屋に戻り、イギリス行きの資金を貯めました。2005年の9月からの1年間、ロンドン郊外のボーラムウッドFCという、ノンリーグのクラブのU-19チームに帯同させてもらって、指導のトレーニングを受けました。2006年の夏には、The FA(イングランドサッカー協会)のインターナショナルコーチングライセンスを取得しています(FA-Level1及びUEFA-Bと同等の外国人用ライセンス)」

当時、何らかの推薦がないと受講できなかった、JFAのB級ライセンスを取得するには、選手や指導者として実績の乏しい若杉には難しかったため、外国でのコーチングライセンスの取得も、ひとつの打開策だと考えていたという。

「FAのライセンスを取得したからといって、日本で急に評価されることはありません。ただ、私の場合は帰国からまもなく効果を発揮しました。早稲田のサッカースクールで指導のバイトを始めたところ、面白そうなのがいるということで、当時のア式蹴球部の監督だった大榎さん(克己:元・清水エスパルス監督)から声を掛けて頂いたんです」

ア式蹴球部出身ではなかったが、FAのライセンスを取得している若い指導者ということと、スクールでの指導内容が評価されたようだ。その後、若杉はア式蹴球部Bチームの監督を任され、手腕を発揮、2007年のIリーグ(大学Bチームの全国大会)のタイトルを獲得する。

「私を抜擢してくれた大榎さんへの恩義に報いることができました。大榎さんが指導していたAチームも、インカレ(全日本大学サッカー選手権)で優勝した充実の1年でした。でも、翌春には大榎さんが退任されてしまい、私も2年目はAチームのアシスタントコーチに昇格しましたが、結果は出せませんでした」

 

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ア式蹴球部のコーチを退任した若杉だったが、その後も大榎氏との交流は続く。大榎氏は若杉の指導する場所の相談に、親身になって応じていたようだ。

「一応、私の思いを大榎さんにもお伝えしていました。やはり一度はJの下部組織で監督をやりたかったんです。私のようなプロ選手経験のない者には、ほぼノーチャンスのポジションなんですけど。その後は大榎さんの導きで、FC時之栖U-12の監督と、横浜F・マリノスフットボールアカデミーコーチの職を得ました。大榎さんには本当に感謝しています」

時之栖U-12では、監督ではあったがJクラブではなかった。マリノスでは、Jクラブではあったがチームを任される立場ではなかった。この8年間の仕事を振り返ると、大学2年時に『プロの監督』として食べて行くと意を決して以降、自分はブレていなかったということになると、若杉は呟いていた。

そして話は、広州富力への加入の経緯につながる。

「喜熨斗さんのふたりの息子さんを、マリノスのアカデミーで指導していたんです。当時、喜熨斗さんはグランパスで指導されていましたが、オフの時期などに息子たちのアカデミーの様子を観にきてくださったり、食事をご一緒させて頂いたりしていました。そういう機会の中で、これまでの経験や私の思いをお伝えしていたんです」

イギリス(英語)で指導経験があり、多くのカテゴリーでの監督経験もある。そして、小学生を相手に実際に指導する姿を評価された上での面談の場面を、若杉は語りだした。

「例のスタバ(筆者も喜熨斗氏と面談したお店)でお会いしました。『富力のユース年代のチームを見ないか?』と切り出されてガツーン! ときました。以前から『俺がやる時は手伝ってくれよ』ともおっしゃって頂いていましたし、これはもうお断りする理由などひとつもない、と即決しました」

2016年3月5日、若杉は広州白雲国際空港に降り立つ。

「聞いてはいたのですが、どんよりとした空気と猛烈な湿気に圧倒されました。でも、自分の特長を存分に発揮できる場所だと確信していたので、希望に満ちあふれた中国入りでした。日本でお世話になった皆さんと、私の背中を押してくれた家族のためにも、そう簡単には日本に戻らない覚悟を決めました」

 

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広州富力のU-12チームは、すでに全国規模の招待大会で優勝するなど、結果を出し始めている。若杉は手応えを感じているのだろうか。

「市内の小学生を選抜したU-12は、まだまだこれからのチームです。先日の招待大会では優勝しましたが、本当の意味での全国大会ではありませんでした。私はU-12の選手たちに、今年は『中国ナンバーワン』を目指すことを伝えています」

和食店でのインタビューを終えて、タクシーに乗り込んだ若杉は、筆者にこう言い残して走り去った。

「ユースアカデミーの日本人コーチ陣は単年契約で、結果を残せなければ次はありません。このヒリヒリとした空気の中で、結果を残すことを厳命されています。悔いが残らないように精一杯やるだけです」(了)

【プロフィール】
若杉秀俊(わかすぎ・ひでとし)。1977年生まれ。愛知県出身。早稲田大学在学中に少年サッカー指導に携わり、本格的な指導の道へ。卒業後は早稲田大学大学院に進み、人間科学研究科スポーツ科学研究領域を修了。2005年に単身渡英、ボーラムウッドFC U-19で指導を学び、FAインターナショナルコーチングライセンス取得。帰国後は、FCミネーリオU-15監督、早稲田大学ア式蹴球部Bチーム監督、FC時之栖U-12監督を歴任。2010年から横浜F・マリノスフットボールアカデミー。2016年から中国スーパーリーグ広州富力U-12監督。JFA公認B級コーチ。広東省広州市在住。

【執筆者プロフィール】
池田宣雄(いけだ・のぶお)。1970年生まれ。神奈川県出身。桜美林大学文学部卒業。上海勤務を含む10年間の会社員生活の後、2002年に香港で起業。40歳を過ぎてから執筆活動を開始。香港紫荊會有限公司代表。香港サッカー協会アソシエイトメンバー。香港在住。

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