2017.02.24 Fri

Written by EDGE編集部

アジア

海を渡った指導者たち〜第8回・喜熨斗勝史(広州富力トップチームコーチ)前編

中国スーパーリーグの広州富力が、AFCチャンピオンズリーグに初出場を果たしたのは2015年。ガンバ大阪、城南FC、ブリーラム・ユナイテッドと同組となった広州富力は、グループ最下位に沈み大会を去った。同年の国内リーグ戦でも不振を極めた広州富力は、中盤戦以降を残留・降格ラインで戦う状況に陥り、コスミン・コントラ監督を更迭した上で、残留を懸けて終盤戦を戦っていた。

ドラガン・ストイコビッチが、広州富力の指揮官として招聘されたのは2015年8月下旬。リーグ戦も残すところわずか6戦という、究極の無茶ぶりを飲んだかたちでの中国入りとなった。

新指揮官は母国セルビア人のコーチを帯同するとともに、名古屋グランパス時代の腹心だった喜熨斗勝史(以下、喜熨斗)の招聘に動く。当時、グランパスのトップチームコーチだった喜熨斗は、突如として中国行きの決断を迫られることとなる。

「グランパスの強化部は『来季以降もコーチングスタッフとして構想に入っている』と言ってくれたのですが、一方で『ピクシーからの直々の要請をむげに断わるのもどうかと』というお話でした。広州富力の危ない状況も聞いていましたが、ピクシーからのご指名でしたので、引き受けることにしました」

1995年、ベルマーレ平塚ユース(当時)を皮切りに、20年以上日本で指導してきた喜熨斗は、海外での指導実績を積む機会もうかがっていたのだという。

「いつか海外のトップリーグで指導したいという思いが巡っていました。でも『中国だけは絶対に行きたくないよね』なんて妻と笑っていたのですが、中国になってしまいました(笑)。実際に日本では、中国に行くのはお金のためだとか、日本ではダメになったからだとか、どうしても悪いイメージで語られてしまいますので」

 

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2015年の8月下旬、喜熨斗は広州白雲国際空港に降り立った。広州富力との契約はシーズン終了までのわずか2ヶ月。提示された報酬はグランパス時代のそれを下回っていたという。

「スーパーリーグから降格した場合はそれで終わり、残留を果たせばその後はこんな条件で、という内容でした。それはピクシーも同じでした。残り6試合で勝ち点9を確保すれば残留、という見立てをしました。降格しそうなチームが勝ち点を積み上げるというのは本当に難しいことなので、神経をすり減らす地獄の2ヶ月でした」

ストイコビッチ新体制で臨んだ第25節と26節を連敗。広州富力は降格圏に沈んだ。鳴かず飛ばずの選手たちの士気も消沈したまま、いよいよ覚悟を決める時がやってくる。その時、ストイコビッチは無謀とも言える奇策を講じたという。

「リーグ戦残り4試合の段階で、それまでの4バックから5バックに変更しました。本当の意味での5バックには程遠いのですが、突貫工事を施しました。富力の選手たちにとっては初めてのシステムでしたので、こと細かく指導しました。結果、27節で初勝利をあげてクビの皮がつながりました」

次の28節は敗れたものの、29節では勝利を収め、他会場の試合結果も重なったことで、広州富力は最終節を残した時点でスーパーリーグ残留を果たした。

「薄氷を踏む思いの毎日で、気がつけば体重が6キロも減っていました。自覚がなかったので、最初は体重計が壊れていると思っていました(笑)。残留が決まるまで、まだやっていない練習を思い出しては書き留めての毎日でした。ある日、ピクシーと会うや否や、お互いにまったく同じ練習メニューを持参して、見せ合ったこともありました(笑)」

 

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結果で報いたストイコビッチ新体制に、広州富力のクラブ首脳陣は即座に対応を始めたという。どうやらクラブは実際にリーグ残留が確定するまで、新体制との契約を一部履行していなかったようだ。

「結果を待っていたのでしょうね。残留が決まるまでZ(就労)ビザの手続きが滞っていました。もし残留できなかった場合は、クラブとしてもムダな手続きになってしまいますから。ですので、2ヶ月分の報酬も実際には受け取れていませんでした。最悪の場合、それもなかったことにされたのかもしれません(笑)」

その後、新体制の指導陣へ就労ビザが発給され、遅延していた報酬は満額支払われた。さらに、2016年シーズンに向けての具体的な話し合いが行われることとなった。

「クラブの方針として、トップチームもアカデミーも日本以上のものを作ることになりました。ピクシーも長らく日本にいましたので、日本の良い部分は取り入れますが、すべてを日本式にするのではなく『インターナショナルスタンダード』を掲げて、強化を図ることになりました」

インターナショナルスタンダードについて、喜熨斗は明確に説明を加えてくれた。

「ピクシーの人脈とクラブの人脈から、世界中の人材が広州富力に招聘されています。トップチームの括りだけでも、セルビア、スコットランド、オランダ、スウェーデン、ギリシャ、イスラエル、ブラジル、オーストラリア、韓国そして中国国内から、各分野のエキスパートが集結しました。日本人は私ひとりだけです」

 

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メモが追いつかず国名を繰り返してもらったほどだ。ひとつのクラブのトップチームに、これだけの多様な人材を招聘する意図には一体なにがあるのだろう。

「例えば、全員を日本から招聘するのは簡単なことです。でも、それでは日本を上回るクラブは作れません。どこの国(の人)にも秀でた部分とそうでない部分がありますが、秀でた部分をクラブが抽出していくことで、飛躍的な拡充を遂げるという発想です。これは今の中国だからできることであって、おそらく日本のクラブではできないことです」

広州富力のトップチームの練習は、喜熨斗が持ち込んだメソッドで行われている。その内容はクラブ首脳や選手から評価が高く、喜熨斗の役割は多岐に及ぶこととなる。

「トップチームの練習内容を高く評価してもらっていました。そこで、上(トップチーム)から下(アカデミー)まで共通の認識で活動していくために、トップチームのコーチと兼任するかたちで、ユースアカデミーのテクニカルディレクターに就きました」

2016年から、広州富力のユースアカデミーの活動が、広州市内の各地で本格始動している。

クラブの方針となったインターナショナルスタンダードに基づき、また、喜熨斗個人の抱く思いが交錯する形で、9人(2017年1月現在)の日本人指導者が、広州富力のユースアカデミーに招聘されている。

(後編はこちら)

【プロフィール】
喜熨斗勝史(きのし・かつひと)。1964年生まれ。東京都出身。日本体育大学卒業後、都立高校教員を経て東京大学大学院に進む。修士課程修了後の1995年から本格的な指導者の道へ。ベルマーレ平塚、セレッソ大阪、浦和レッドダイヤモンズ、大宮アルディージャ、横浜FC、名古屋グランパスでコーチを歴任。2015年から中国スーパーリーグ広州富力トップチームコーチ兼ユースアカデミーテクニカルディレクター。JFA公認S級コーチ。広東省広州市在住。

【執筆者プロフィール】
池田宣雄(いけだ・のぶお)。1970年生まれ。神奈川県出身。高校卒業まで地元茅ヶ崎でサッカー少年。都内の大学で中国語を学び、大手物流会社で上海勤務。2002年に香港で起業。2012年からサッカー専門誌などでの執筆活動を開始。AFCB香港紫荊會代表。香港サッカー協会アソシエイトメンバー。香港在住。

 

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