2017.01.25 Wed

Written by EDGE編集部

アジア

海を渡った指導者たち〜第7回・関瑞貴(AC長野パルセイロ・トップチーム主務)前編

「海を渡った指導者たち」の連載開始から半年が過ぎようとしていたある日、1通のメールを受信した。「来季から中国で指導したいのでチームを紹介してほしい」という内容だった。その後、このメールの主と連絡を取り始めたところ、以前に中国での指導経験があることを知る。上海フェリエFCという民間サッカースクールで、日本人の子供たちを指導していたのだという。

筆者は本格的な仲介活動を行なってはおらず、彼の期待には応えられなかった。その一方で、日中両国での指導経験がある彼の言葉を、この連載で公開できないかと考えるようになっていた。

昨年末、日本での仕事の内定を得たという連絡があり、そのついでに取材の申し出を行なったところ、「僕なんかで本当に大丈夫ですか?」と謙遜しながらも快諾を得たので、急遽、仕事始めの1月4日にJR東京駅近くのカフェで取材を行なった。

彼の名は関瑞貴(以下、関)。今季からJ3のAC長野パルセイロのトップチーム主務として働く27歳の若手指導者だ。まずは、若くして指導者の道を歩み始めるまでの経緯から話を聞いた。

「サッカーどころの静岡出身ですけど、比較的サッカーが盛んではない沼津で生まれ育ちました。小学生の時も中学生の時も、早々に敗退する弱いチームにいましたので、もう子供の頃から全然ダメでしたよ。それでもキャプテンを任されたりしていまして、本気でプロサッカー選手になると公言していました(笑)」

関は、高校進学を機に地元沼津を離れて、新潟の新設高校に進学することになる。JAPANサッカーカレッジが提携する開志学園JSC高等部に入学したのだ。

 

前編A

 

「セレクションに応募して、高等部1期生の定員25人にすべり込みました。普通に国語や数学の授業もあるのですが、体育の授業はサッカーしかやりませんし、生徒全員がサッカー部でした。残念ながら夏のインターハイと冬の選手権では、新潟県予選を突破できなかったのですが、2年生の時に、プリンスリーグの県大会を制して北信越リーグに昇格しました」

高校3年生となった関は、高円宮杯の全国大会に北信越第三代表として出場する。大会初出場を果たした開志学園JSCは、大会のグループステージで3戦全敗の憂き目にあったのだという。

「G大阪、ジュビロ磐田、コンサドーレ札幌のU-18と同組でした。7失点の大敗を喫したG大阪ユースには、飛び級でプレーしていた中学3年生の宇佐美貴史(FCアウクスブルグ)がいました。Jの下部組織との資質の差をまざまざと見せつけられました。試合の夜には『やべっちFC』で『ガンバユースに脅威の中学生現る!』みたいな感じで、宇佐美のハットトリックを何度もリプレイされてしまって。宿舎でテレビを観ていた僕らは全員でへこみました(笑)」

当時の開志学園JSCでは、東博樹氏と貞清健一氏(共に現アンジュヴィオレ広島)が指導に当たっており、関はこのふたりの指導者から大いに影響を受けたという。

「それまで、本格的なサッカーの指導を受けたことがなかった僕は、東さんと貞さんの指導が時に理解することができずにいて、選手としてはくすぶっていました。試合に使ってもらえたりもらえなかったりで、高校2年生の時には足首を怪我してしまい、ピッチに立てない日々が続きました」

足首の手術からのリハビリに励む関に、ふたりの指導者から思いもしなかった声が掛かったのだという。関はこの時の指示が、後の指導者人生の礎になったと考えているようだ。

 

前編C

 

「監督の東さん、ヘッドコーチの貞さんの順でベンチに陣取るのですが、僕に『隣りに座れ!』と言うんです。最初はわけも分からず座っていたんですけど、おふたりがピッチに指示を出した後に、戦術のことや良いプレーや悪いプレーについて、話している内容が聞けたんです」

チームメイトからは「アシスタントコーチかよ!」などと冷やかされながらも、関はふたりの指導を垣間見ることで、それまでまったくサッカーを理解していなかったことに気づかされたという。そして関は指導理論の世界にのめり込んで行く。

「ピッチでプレーしていた時は、ベンチの指示の意味が分かってなくて、適当に解釈したり時に無視したりしていました。でも、東さんと貞さんの横に座らせてもらうようになってから、サッカーを正しく認識することができるようになりました。『あの指示には、こんな大切な意味があったのか』というのがたくさんありました」

高校最後の年には怪我も癒えピッチに戻った関だったが、引き続きふたりの指導者からは、チームミーティングで使用する映像の編集を任されるなど、アシスタントコーチのような役目も担っていたようだ。

「正直に言いますと、僕はその頃すでに選手よりも指導の方が面白いと思っていました。サッカーを外から見る機会に恵まれて、さらに一流の指導理論も聞かせてもらいました。東さんと貞さんは僕に厳しく接しつつも、指導者を志すきっかけを与えてくれました。その後、僕はJAPANサッカーカレッジのコーチ・審判専攻科に進みました」

コーチ・審判専攻科に進んだ関は、学校のある聖龍町の中学生チームで指導を担当することになる。その後も、インターンシップでベガルタ仙台でも経験を積んだ。

「FC聖龍ジュニアユースでの指導は、僕自身、初めて任されたチームでしたので、地元の方々との交流などを通じて思い入れがあります。アルビレックス新潟のお膝元にある小さなサッカー少年団でした。また、インターンシップでお世話になったベガルタ仙台でも、Jクラブの普及や育成の現場を学ばせて頂きました」

JAPANサッカーカレッジを卒業した関は、生まれ育った静岡に戻り、清水エスパルス普及部の研修生の立場で、駿東U-15のアシスタントコーチと、サッカースクールのアシスタントとして、先輩コーチ陣と静岡東部の子供たちの指導に当たった。

「サッカースクール駿東には、屋根付きのフットサルコートが2面あり、オフィスも隣接していて、非常に恵まれた環境で指導させてもらいました。研修生の立場でしたが、生活できる給料も出ていましたし、実家から通えるメリットもありました。でも、ここでの指導は加入当初から単年だけと決めていたんです」

わずか単年で身を退くことを決めていた、というのはどういうことだろう? 筆者の問いに、関はここからが本題とばかりに、当時の経緯を熱く語り始めた。

「実は、エスパルスの研修生のお話よりも前から、中国の民間サッカースクールでの指導のお誘いを頂いていたんです」

(後編につづく)

【プロフィール】
関瑞貴(せき・みずき)。1989年生まれ。静岡県出身。開志学園JSC高等部卒業、JAPANサッカーカレッジのコーチ・審判専攻科在学中に指導者の道を志す。卒業後、清水エスパルス駿東U-15アシスタントコーチ。2012年から3年間中国に渡り、上海フェリエFCヘッドコーチ。帰国後、JAPANサッカーカレッジのNIIGATA J.S.C監督。2017年からAC長野パルセイロのトップチーム主務。JFA公認B級コーチ。長野県在住。

【執筆者プロフィール】
池田宣雄(いけだ・のぶお)。1970年生まれ。神奈川県出身。高校卒業まで地元茅ヶ崎でサッカー少年。都内の大学で中国語を学び、大手物流会社で上海勤務。2002年に香港でコンサル会社設立。2012年からサッカー専門誌などでの執筆活動を開始。AFCB香港紫荊會(www.afcb.biz)代表。香港サッカー協会アソシエイトメンバー。香港在住。

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