2016.11.14 Mon

Written by EDGE編集部

アジア

海を渡った指導者たち〜第6回・金光石、佐藤貴庸、浅野伸太郎、石田隼也(SPORVAコーチ)前編

海外で指導をする指導者にスポットを当てる「海を渡った指導者たち」。直近のシリーズでは上海最大のスクールに成長した、SPORVAを紹介中。これまで、SPORVA代表の千葉将智と、実弟で副代表の千葉康博のインタビューをお届けしたが、ここからは現地スクールで中国人の子供に中国語で指導をする、4名の元・日本在住指導者の声を紹介したい。日本でコーチ業をする人にとって、キャリアパスを描く意味で参考になるに違いない。(文・写真 池田宣雄)

中国を代表する経済都市である上海を拠点に、民間サッカースクールとして、街で随一の規模にまで急拡大を遂げたSPORVA。代表を務める千葉将智と、実弟で副代表の千葉康博を中心に、今もなお上海の巨大市場を席巻し続けている。

SPORVAは中国人の子供を対象に運営しているサッカースクールであるがゆえ、現場での指導も社内の打ち合わせも、中国語で行なっている。所属するコーチとスタッフの大半は、必然的に中国人で占められている。

取材初日、まだ千葉兄弟以外のメンバーの顔も名前もわからない状態で、社内の定例ミーティングへの同席を許された筆者は、非常階段での一服を終え、カメラを片手に彼らの集う会議室に足を踏み入れた。

千葉代表の、小気味好いテンポでの注意事項の説明に、熱心にメモを取ったり、大きくうなずく会議中の面々。皆、同じ濃紺のポロシャツを着ているせいなのか、最近の上海の若者も小洒落ているせいなのか、その中にいるはずの、日本からやってきた4人のコーチたちを判別することができない。

 

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SPORVAには現在、在日韓国人のテクニカルディレクターと、3人の日本人コーチが在籍している。金光石(以下、金)、佐藤貴庸(以下、佐藤)、浅野伸太郎(以下、浅野)、そして石田隼也(以下、石田)の4人だ。

彼らはJFA公認のコーチングライセンスを持ち、その上で「中国語で現場指導を行なっている」と耳にした時から、筆者は彼らへの興味が募っていた。

活躍の場を海外に求め、中国大陸の玄関口である上海の地で、現地の子供たちに指導を施す彼らの生き様は、日本のグラスルーツで指導されている方々にとって、非常に興味深い人々なのではないだろうか。

インタビューは取材初日の夜、各々の現場指導を終えてから、上海・虹橋の和食店にて行なうことになった。彼らは担当する現場に近い順番で、お店に駆けつけてくれた。

まずは、簡単な自己紹介(プロフィールを参照)から始まり、金テクニカルディレクターから、SPORVAに加入した経緯を伺ってみた。

◆中国の大連でサッカー人脈を作り、上海へ渡る

金:「私は選手として、日本の地域リーグや、韓国の2部リーグでプレーしていました。韓国から帰国してからは、大阪で実家の飲食店を経営しながら、地元の社会人チームでボールを蹴っていたのですが、親友が遼寧省の大連で新しい挑戦をしていることに感化されまして、自分も海外で勝負してみようと決心しました」

金はお店を切り盛りしていた2009年に大連に渡り、諦めかけていた「サッカーで飯を食う」という夢を実現する為に、海外生活をスタートした。飲食店で働きながら中国語を学び、大連でサッカー人脈を拡げることに専念していたという。

その大連でのサッカー人脈から、上海の日本人向けサッカースクールを紹介されて、プロの指導者として働くチャンスを求めて、金は上海に渡ることになる。

金:「選手だった頃から、母校の子供たちへ指導を経験していたこともあって、中国で指導者として生活することも、選択肢のひとつだと考えていました。幸いにも御縁(球縁)に恵まれて、この業界で生計を立てていく覚悟を決めました」

そして2015年の4月から、新たな環境で更なるキャリアアップを図るべく、金はSPORVAに加入する。千葉兄弟の思いに賛同し、世の中にインパクトのあることを成し遂げたい。SPORVAのミッションとビジョンを、即座に共有したという。

金:「今でも、加入当時の千葉代表の言葉が頭に焼きついています。『好きなことで生計を立てるなら、休みはない、給料は低くても仕方がない。そういった風潮に終止符を打つべきだ』と。指導者の在り方を変えていく必要性を痛感しまして、我々自身の手で変えるべきことを変えていこう、と思いました」

在留邦人の子供たちへの指導から、現地中国の子供たちへの指導へ。金は環境を変えた当時の経緯を説明する。

金:「上海に来た当時から、この巨大な中国で『スポーツビジネスを広めて行けたら』と考えていました。我々が外国で暮らす意義とは、その土地への社会的な貢献と、自身が新しい領域に挑戦すること。そういう生き方を発信して『世の中に良い影響を与える存在になりたい』と。そう素直に思い続けていましたので」

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日本のサッカースクールでは、コーチとして食べて行けなかった

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