2016.10.04 Tue

Written by EDGE編集部

アジア

海を渡った指導者たち〜第5回・千葉康博(SPORVA副代表)「商社を辞め、上海でサッカースクールを興す」前編

中国の上海で、兄・将智さんとともにサッカースクール『SPORVA』を経営する千葉康博さん。かつては半導体商社に務め、香港に駐在するなど、商社マンとして順風満帆の生活を送っていました。しかし、何かに導かれるようにして商社を辞め、兄とともに中国人向けのサッカースクール事業に参入します。最初はお金もコネも信用もない、まさにゼロからのスタートでした。(文・写真 池田宣雄)

【兄・千葉将智インタビューはこちら】

SPORVA代表の千葉将智は、その活動における唯一無二のパートナーである、弟・康博のサポートは絶大だと言い切る。自分がいなくてもSPORVAは回るが、弟がいなければ絶対に回らないだろうと。

弟に対して「ゼロをイチにすることができる男」「ベンチャーに不可欠な男」「周りを巻き込める男」「方針にパワーを注ぎ込む男」など、将智の口からは賛辞の言葉が惜しみなく放たれる。

康博も将智と同様に上海からの帰国子女として、日本の高校と大学で過ごした経験がある。将智が絶大な信頼を寄せる康博の人物像を紐解くには、彼自身が帰国子女として経験した、ふたつの重要な転換期が鍵となる。

康博への取材は、上海・虹橋の焼肉店で食事をしながら和やかにスタートした。明るい性格の康博は、トングを片手におどけながら当時を振り返ってくれた。

「僕は小4から中3まで、上海で過ごしました。サッカーは兄の影響を受けて幼稚園から始めたのですが、上海日本人学校(現在の同虹橋校)に通っていた6年間は、まともな指導を受けたことはありませんでした。当時は、生徒数も数えるほどしかいなかったですし、日本人向けのサッカースクールもなかったんです。数人のサッカー好きが、校庭に集まってボールを蹴っていました。登下校はスクールバスだったので、日本のような放課後もなく、週に2回の部活動が何よりも楽しみでした」

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サッカー環境が未整備だった当時は、ボールが蹴れるだけでも幸せだったと、上海からの帰国子女たちは口を揃える。康博はその後、東京の高校に通うこととなる。

「中学を卒業するタイミングで日本に戻ることになり、東京農大一高に進学しました。入学してすぐにサッカー部に入りましたが、これがひとつ目のターニングポイントでした。僕は高校サッカーのレベルにまったく達していなかったんです。部活動は正直苦しかった。一番下のチームからスタートして、言葉通り、死に物狂いで練習に明け暮れましたが、結局レギュラーにはなれませんでした。ただ、この現実が自分にとって、目標に近づく為の自己分析能力であったり、逆境に立ち向かう基礎を養ってくれたのは確かです」

サッカースクールを経営する人物だからといって、高いレベルでサッカーをやってきた訳ではなかったらしい。ごく普通の学生がサッカーに明け暮れてきた、という向きだ。

「その後は、浦安にある明海大学に進学して、体育会サッカー部に入りました。これがふたつ目のターニングポイントです。高校ではサッカーを純粋に楽しむことができなかったのですが、もっと本質を楽しもうと、サッカーの内容と質にこだわりました。千葉県リーグ1部の明海大学は、関東リーグ昇格を目標としていて、一層ハードな環境でした。僕にとって周りの部員たちは、異次元のレベルだと感じました。年代別日本代表候補だったり、プロ契約目前の経歴を持つ部員もいて、監督もスタッフも一流でした。結局、やっぱり大変でした(笑)」

ほどよく火の通ったネギタン塩を頬張りながら、康博は話を続ける。

「上には上がいるというか、プロになってもおかしくない先輩や友人であっても、プロからは声が掛からない現実を見て、自分の将来を強く意識し始めました。このタイミングで、あの上海での生活体験が、初めて自分の強みとなってくるんです。選択した学部は外国語学部中国語学科。後に自分がこの言葉で人生の挑戦をすることになるとは、当時は思いもしませんでしたが、漠然と『中国語は必ずモノにしよう』と、在学中に1年間の語学留学もしました」

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半導体商社に入社し、香港へ駐在。充実した日々を送っていたが…

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