2016.09.08 Thu

Written by EDGE編集部

アジア

海を渡った指導者たち〜第4回 千葉将智(SPORVA代表)「20代で上海へ、現地でサッカースクールを起業」前編

千葉は続ける。

「当時、上海日本人学校の生徒数は1,500人規模になっていました。当然、その中には日本でサッカー少年だった子もたくさんいます。新しい場所で、保護者も子どもたちもサッカーを続けられるか不安を抱えてやってきます。まるで当時の自分を見ているようでした。ただでさえ、外国という未知の世界で不安がいっぱいの子どもたちに、安心してサッカーを思い切り楽しめる環境を、もちろん、未経験の小さな子どもたちにも日本と同様に、当たり前のように自然とサッカーに触れる環境を作りたかったんです。ちょうど上海に駐在する日本人が爆発的に増えていた時期でもあって、気がつけば個人ではとても管理しきれない規模に急成長していました。現金でもらっていた謝礼も、カワイイ程度では済まされない額に達していましたので、仲間と相談してスクールを事業化する事にしました。それが2005年の話ですね」

個人指導の謝礼も子どもたちが増えることで膨らむ一方に。チーム活動の事業化は必然の産物であった。個人指導がチーム活動に、チーム活動がスクール事業に拡大した日々を、千葉は語る。

「会社を作ってからも、スクールは順調に拡大して行きました。活動拠点も2つ3つと増え、クラス別に指導する為にコーチも積極的に集めるなど、以前自分自身が経験できなかった、日本のサッカー少年団の日常風景と変わりない環境を、上海の日本人社会でもある程度再現できたと思います。上海での日本人は駐在という形がベースの社会ですから、子どもたちの入れ替わりも頻繁です。上海でサッカーを続けて何年かすれば帰国していく、そんな子どもたちが日本に戻った時、日本の子どもたちと遜色ないレベルでサッカーを続けられる。あるいは、サッカー以外にチャレンジするにしても、物事に対する姿勢や努力する意味を伝えました。その結果、子どもたちはサッカーを楽しんでくれましたし、保護者の方々からも感謝の言葉をたくさん頂きました。僕も貪欲に指導を学び、夢中になって取り組みました」

 

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一方で、選手経験と子どもたちへの指導経験しかなかった千葉は、スクールの事業化による会社経営という新たな魅力に取り憑かれていく。

「20代前半での経営者ですからね。今から思えば有り得ないレベルで、完全に手探り状態でした。ただ幸いなことに上海という土地柄、海外の第一線で活躍される駐在員の方々や会社を経営されている方など、周りに色々な方々が溢れていました。上海JFも同様に、色々な経験をされている方ばかりでしたので、経営や海外ビジネス、現地の法律の事など、自分が知りたい事はいくらでも生きた情報を得る事ができたのです。聞きたい事があれば『とりあえずボールを蹴りに行って、誰々さんを捕まえて聞いてみよう!』みたいな感覚です。若い奴が面白そうな事をやっているからと、叱咤激励も冷やかしもたくさん頂きました(笑)。本当にありがたかったです。この時期に、一介の指導者としての自分のままでは、経営やその先にある大きな事を成し遂げるのは難しい、ということに気付けたのも幸運でした。環境を変えるという意味では、指導者としてひとりでやれる事は限られているんだと、身をもって実感できたのが本当に良かった。ひとりではどう頑張ってもせいぜい100人くらいにしか教えられませんからね」

その後、千葉の起こした会社は順調に推移するのだが、20代半ばで起業した彼は様々な経験を積みながら、新たな思いを抱き始めるのだった。

「今までサッカーしかしてこなかった人間が、サッカーの指導だけでなくスクールの経営にも深く関わり始めたことで、様々な期待と不安を抱くようになりました。日中関係の悪化や景気の後退など、海外ならではの外部環境の変化で、在留邦人が激減したらどうなるのか? とか、色々な思いが交錯しました。ただ、一番引っ掛かっていたのは、目の前に中国という手付かずの広大な市場があるのに、全然動けていない自分に対してでした。日本人社会のサッカー環境は、昔に比べれば格段に良くすることができました。でも、中国ローカルのサッカー環境は、自分が中学時代に上海で暮らしていた頃から何も変わっていなかったんです。特にソフト面は最悪で、中国サッカーの抱える問題が、自分が指導を深く理解したことで、より鮮明に映りました」

経営者が期待と不安を同時に抱くのは、世の常なのだろう。千葉はここで一旦我に返り、ゼロから自分を見つめ直すことにした。

「このまま上海の日本人社会を相手に、日本人の子どもたちだけを指導することで本当に良いのか? という思いが次第に強くなっていきました。誤解を恐れずに言えば、日本人相手なら日本でもできる訳で。指導は本当に楽しかったし、伸びていく子どもたちを見られたのは最高のやり甲斐でした。保護者の皆さんも本当に良くして下さって。ただ、日本人社会でサッカーをする人数はどう頑張っても限りがある。中国に住んでいる中国人の子どもたちの数とは比較になりません。目の前にとてつもない市場が広がっているのに、チャレンジしない選択肢はありませんでした。ただ、日本人向けスクールの生徒数は500人ほどまで増えて、事業自体は上手く行っていたので、リスクもある中国人向けのスクールにチャレンジしたいという思いは、社内に伝えきる事はできませんでした。結局、当時のスクールと抱えていた子どもたちを設立メンバーにお願いして、僕は会社を去る決意をしました」

自分のサッカー人生を見つめ直した千葉は、ひとり会社を離れて次なる場所に歩み出す事を決断した。そして、その後の活動における唯一無二のパートナーとなる人物を、上海に呼び寄せたのだった。

「そもそも、僕はプロサッカー選手になる為に、中国で勝負すると決めて上海に戻ってきた訳です。選手の道は諦めましたけど、指導者として、そして新たな市場で勝負する道は残されていたので、思い切って中国人向けの指導に挑戦する気持ちが固まりました。そのタイミングで、香港に駐在していた実弟が僕の意志に共感してくれて、勤め先を退職して新事業に参加してくれる事になりました。弟とふたり、完全にゼロの状態からのスタートでした」

(インタビュー後編はこちら)

【プロフィール】
千葉将智(ちば・まさとも)。1981年生まれ。川崎市出身。鹿島学園高校卒業、大東文化大学在学時の2003年に、中国3部リーグの上海2000と契約。引退後に上海在住の日本人児童たちへの個人指導を始めて、本格的なサッカー指導者の道へ。2005年に日本人児童スクールの事業化を果たした後、2008年に中国人児童スクールを立ち上げる。その後、日本の大手スポーツスクールの中国進出事案に関わり入社。2013年に同社からの事業譲渡の提案を受けてSPORVAを設立。世堡体育信息咨詢(上海)有限公司(www.sporva.com)代表。上海市在住。

【執筆者プロフィール】
池田宣雄(いけだ・のぶお)。1970年生まれ。神奈川県出身。高校卒業まで地元茅ヶ崎でサッカー少年。桜美林大学で中国語を専攻し、株式会社近鉄エクスプレスで上海勤務。2002年に香港にてビジネスコンサルタントとして独立。2012年からフットボールコーディネーターとして、指導者や選手たちの海外移籍仲介や、サッカー専門サイトでの執筆活動を開始。AFCB香港紫荊會(www.afcb.biz)代表。香港サッカー協会アソシエイトメンバー。香港在住。

 

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