2016.09.08 Thu

Written by EDGE編集部

アジア

海を渡った指導者たち〜第4回 千葉将智(SPORVA代表)「20代で上海へ、現地でサッカースクールを起業」前編

近年、アジアを中心に日本人指導者の輸出が始まっています。鹿島学園から大東文化大学を経て、上海市で最大の民間サッカースクールSPORVAを経営する千葉将智さんもそのひとりです。プロ選手になる夢をかなえるために渡った上海で、待っていた現実。彼の地で得たビジネスチャンスとは? (文・写真 池田宣雄)

中国最大の経済の街、上海市。古くから外国貿易の玄関口として栄え、戦前戦後を通じて多くの日系企業が進出したことで、海外でも有数の日本人コミュニティを有する、どことなく日本が入り混じっている街だ。

筆者も会社勤めをしていた90年代にこの街で暮らしていた。若輩者だった当時、平日は勤め先の業務に明け暮れて、休日は発足したばかりの社会人チーム(以下、上海JF)でボールを蹴っていた。

チームには大人たちに混じって数人の中高生もいた。その中に、身体はひと際細いがサッカーの上手い中学生がひとり。千葉将智(以下、千葉)という、後に上海市で最大の民間サッカースクールを経営する事になる少年がいた。

筆者が千葉に会うのは実に18年ぶり。時折連絡し合う間柄ではあったが、スクール経営者となった千葉との再会は、お互いが上海を去った90年代後半からの空白を埋める作業から始まった。

千葉は当時の状況からゆっくりと語り始めた。

「父親の仕事の関係で、中学時代の3年間を上海で過ごしました。今や小学生だけでも千人以上在籍する上海日本人学校の生徒数も、当時は小中全学年を合わせてもたったの数十人。部活やサッカースクールなんてものはなかったので、現地中国人のサッカーチームに無理矢理参加させてもらったり、池田さんもプレーしていた上海JFに混ぜてもらっていました。中学卒業後も父親の上海勤務は続くのですが、僕は高校生になったら日本でサッカーがしたかったので、学生寮があってサッカーもできる鹿島学園に入学しました。鹿島学園では結局一度も茨城県予選を突破することもなく、タイトルとか全国大会とは無縁でした。でも3年時には主将をやらせてもらったり、学校にはサッカー部の連中だけではなく鹿島アントラーズのユースもいて、サッカー野郎に囲まれて本当に楽しかったですよ」

 

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当時、帰国子女となる千葉が鹿島学園に進学すると聞いた際に、日本の厳しい練習について行けるかと、皆で心配していた事を思い出した。今でこそ鹿島学園は強豪校となったが、当時はそこまでの状況ではなかった事が幸いしたようだ。その後、千葉は都内の大学に進学してサッカーを続けた。

「大東文化大学に進学しました。当時は東京都2部だったんですけど、上手い奴らもたくさんいる良いチームだったので、サッカー自体は楽しめました。ただ、夢を諦めきれず、在学中にプロになる道を模索し始めました。Jクラブのトライアルにも参加しましたが、大人数が参加するトライアルで引っ掛かるというのは現実的に難しい事でした。ですので、中学時代を過ごした中国でプロになる可能性を求めて、大学を休学して上海に向かいました。中学時代を過ごした上海ですが、実際にはプロになる当てもコネもありません。若かったのもあったんでしょうね、頭で考える前に行動していました。なぜか上海に行く事には迷いがありませんでした」

Jクラブのトライアルからプロ入りを果たした例は、ほとんど聞いたことがない。とくに無名の大学生ともなると、可能性は限りなくゼロに近い。千葉は可能性を求めて上海に渡り、中国3部リーグを戦うプロチーム『上海2000』と契約した。

「上海に着いてからすぐに行動に移しました。当時の上海にはいくつかのプロチームがあって、中国3部のチームの親善試合があると聞いて、チームのベンチ裏に陣取って状況を伺っていました。試合後に外国人の監督のところに行って『日本人なんだけど、ぜひ見てほしい』と直談判してみたら、あっさりと練習参加を認めてくれたんです。翌日からチームの練習に通って必死にアピールして、1週間後に老板(社長)に呼ばれました。契約書にサインして上海2000に正式加入しました。当時21歳でしたね」

千葉の選手生活は上海の地で続く事になった。しかし、外国人選手である千葉が中国3部のリーグ戦に出場する事は叶わなかった。当時も現在も、中国3部リーグでは外国人選手の登録は認められていないのだ。千葉は淡々と説明を続ける。

「上海2000は前年リーグ3位の強いチームで、監督が英国人だった事もあって、すぐに2部に上がれるんじゃないかと、僕自身も期待していました。と言うのも、チームに加入してから知ったのですが、僕ら外国人選手は3部のルールで公式戦には出場できなかったんです。それを知った時には愕然としましたけど、監督が『2部に上がれば選手登録できるから今は我慢しろ』と言ってくれたんで、気持ちを切らさずに練習に励みました。上海申花や上海国際との定期的な練習試合には使ってくれましたし、チームの昇格を祈っていました」

千葉を含む数人の外国人選手が、練習に参加していたようだ。ところで、公式戦に出場できない千葉はどのような毎日を過ごしていたのだろうか。

「基本的には午前中に練習して、昼食をクラブハウスで食べてから、午後から夜に掛けては何もする事がない生活でした。リーグ戦には出られなかったので、必然的に無給に近い状況が続きました。午前中の練習は強度がありましたし、貯金があった訳でもなく、バスに乗るお金もないくらい(バス代2元=30円ほど)で、経済的にも体力的にも苦しい毎日でした。昼食は食べられるんですけど、夕食はどうしようかと。それを助けてくれたのが中学時代にお世話になっていた上海JFの皆さんでした。皆さんサッカーが大好きで、顔を出すと飯を喰わせてくれるんです。応援してくれましたし、嬉しかったですね」

外国人選手の登録ができる2部リーグへの昇格を視野に入れていた上海2000。その後チームは昇格を果たし、千葉は公式戦に出場できたのだろうか。

「上海2000には2シーズン在籍しましたが、結局2部に昇格できませんでした。6位、10位と低迷してしまい、僕も契約延長しませんでした。僕が退団してからチーム自体も解散してしまいましたし。僕自身、2年間ほぼ無給の選手生活を送りましたので、精神的にも疲弊してしまって、次のチームを探す気力は残っていませんでした。ですので、ここでの選手生活の継続は断念しました」

上海での2年間の選手生活にピリオドを打った千葉は、大学への復学を経て日本で就職する道もあったが、迷うことなく上海に留まる道を選んだ。なぜ上海に留まる道を選んだのか? 厳密に言えばそれは就職ではなく、上海でのサッカー指導者の道を歩む事になったからだ。

「選手生活を終えたとしても、この街には馴染んでいましたし、日本で就職する気にはなれませんでした。選手として何も結果を残せず、何かをやり切ったという実感がないまま帰国することは考えられなかった。そこで、次のチャレンジと捉えたのが指導者の道でした。ろくに食べられない選手時代から、縁あって上海に住む日本人の子どもたちにサッカーを教え始めていました。自分の経験上、日本人の子どもたちが現地のチームに通う事は難しいと判っていましたし。僕が中学時代に上海で経験したサッカー環境が、未だに改善されていない状況に、大きな意義とチャンスを感じました」

こうして、日本の一般的な少年サッカーとは比較にならないほどの劣悪な環境を上海で経験してきた千葉は、偶然か、必然か、自らが環境の改善に取り組む事になったのだ。

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目の前には広大な中国人の市場が広がっているのに、日本人の子どもにだけ教えていていいのか? 

 

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