2016.03.18 Fri

Written by EDGE編集部

Jリーグ&国内

豊嶋邑作インタビュー「柏の育成組織を経て、ヨーロッパで磨いたスタイルをJ3で生かす」

――当時のレイソルの育成組織は、どんなサッカーをしていたのですか?

豊嶋:僕のひとつ上の代の監督が吉田達磨さんで、パスを繋ぐサッカーをしていました。工藤壮人、指宿洋史、酒井宏樹、武富孝介くんとかがいる代でした。ただ、僕らは個人で打開するサッカーをしていたんですね。それもあって、僕らがユースに上がるときに、攻撃のタレントが昇格できなかったんです。

――その中でも、豊嶋選手はユースに昇格できたわけですよね。

豊嶋:でも、自分はユースに入ってから苦しみましたね。小さい頃から、父親に「ボールを持ったら、見ている人がワクワクするようなプレーをしなさい」と言われていたこともあって、Jrユースまでは、ボールを持ったらドリブルで仕掛けて、フィニッシュまで行くことを意識していたんですね。中学時代はそのスタイルを評価してもらったのですが、ユースに上がると、ドリブル以外にもやることがあって…。チームとして動くこととか、ドリブルで相手を抜いてシュートまで行けたとしても、パスを出せば得点の可能性が高い状況があると、ものすごく怒られました。それで交代させられたり。いまなら客観的に考えて、それを受け止めることもできたのかもしれませんが、高校時代の自分は「なんだよ。いま行けたじゃん」と思ってしまうこともありました。

――結果として、柏レイソルのトップチームに昇格することはできませんでした。それからのキャリアは?

豊嶋:僕は高卒でプロになることにこだわっていたので、当時の監督に相談したところ「大学に行って、4年後にレイソルに戻ってくればいいじゃないか」と言われました。そのため、他のJクラブにトライすることもできず、大学に行くしかないなと思っていたあるとき、何気なく携帯でサッカーサイトを見ていたら、某J2のクラブがセレクションをしていることを知りました。当時の自分としては、行けば受かるんじゃないかという気持ちがあったので、そこでダメなら大学に行こうと。それで、セレクションでは良いプレーができて、これは行けるなと思っていたところ、強化部長の方が来て「高卒選手には給料5万円程度しか出せない。うちのクラブの現状だと、大卒で教員免許を持っていて、仮にチームを解雇になったとしても、次に行き先がある選手じゃないと獲得できない。君なら大学に行けば、4年後にはJ1に行けるだろうから、そっちに行きなさい」と言われたんです。

――それで、大学に行くことにしたんですか?

豊嶋:それもあって、推薦入学で大学に行こうと思っていたところ、セレクションを見ていた、代理人のからオファーを頂いて「ブラジルに行ってみないか」と誘われました。自分としても乗り気だったのですが、渡航前の練習中にグロインペイン症候群になり、半年間、サッカーができなくなってしまったんです。その後、リハビリをしている時にヨーロッパのクラブから話をもらえて、両親や代理人の方の理解を得て、ヨーロッパに送り出してもらいました。

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海外では『助っ人』としてのプレーを見せなければ、次はない

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