2016.03.18 Fri

Written by EDGE編集部

Jリーグ&国内

豊嶋邑作インタビュー「柏の育成組織を経て、ヨーロッパで磨いたスタイルをJ3で生かす」

柏レイソルユースを経て、ヨーロッパのクラブで研鑽を積んできた豊嶋邑作選手。ヨーロッパで波乱万丈の道を歩んだ後、2015年に日本サッカー界に復帰を果たした。父の仕事の都合で移住したコスタリカでサッカーを始め、柏レイソルの育成組織、ベルギー、モルドバ、ラトビア、モンテネグロと渡り歩いてきた豊嶋選手のサッカーにかける思いとは。(インタビュー・文 鈴木智之/フットボールエッジ編集長)

――豊嶋選手はヨーロッパのいくつかのクラブでプレーしてきましたが、サッカーを始めたきっかけは何だったのでしょう?

豊嶋:両親の仕事の都合で、4歳から7歳までコスタリカで過ごしたのですが、当時は差別がひどくて、近所の子に「遊ぼう」と言うと、「日本人はあっちに行け」と言われたり、インターホンを押して、誰か来たと思ってドアを開けたら、生卵をぶつけられたこともありました。そういうことが半年ぐらい続いたので、いつもひとりで遊んでいたのですが、ある日、子どもたちが公園でサッカーをしていて、どうやら一人足りないらしくて「そこの日本人、人数が足りないから入れ」と。初めて、コスタリカの人の仲間にいれてもらえたのが、サッカーでした。

――それが4歳のときですか。なかなか衝撃的な原体験ですね。

豊嶋:そこで「サッカーのときは仲間に入れてやるよ」と言われたので、どうせやるんだったら、こいつら全員負かしてやろうと思ったんです。それから毎晩、父親と練習をするようになりました。だから、僕の場合は友達を作るためにサッカーを始めたんです。うまかったら、認められるだろうと思っていました。その後、コスタリカの「デポルティーボ・メトロポリターナ」というクラブに入りました。

――そのクラブではどんなことを教わったのですか?

豊嶋:毎晩父親と練習していたおかげで、自分はチームでずば抜けてうまかったんですね。1試合で10点ぐらいとっていて(笑)。7歳になって日本に帰るときに、少年団の監督が元ウルグアイ代表の人で、僕の父親に「育て方を間違えなければ、プロサッカー選手になる素材だから、大事に育てろよ」と言ったと聞きました。

――当時はお父さんとどんな練習をしていたのですか?

豊嶋:どうすればコスタリカの人を驚かせるかを考えて、父親に「すごい技を教えてくれ」と言ったんです。そうしたら「オーバーヘッドキックだ」と。サッカーの最初の練習がオーバーヘッドだったんです。その後にドリブルやパス、シュートを覚えました(笑)。そのおかげで、5歳の頃には、オーバーヘッドができるようになっていました。

――コスタリカから帰ってきたあとは、どのようなチームに所属していたのですか?

豊嶋:2年生から4年生までは地元の少年団に入って、5年生から柏レイソルのジュニアです。当時は400人ぐらい受けに来て、5人合格しました。そのうちの一人が、ザスパクサツ群馬にいる高瀬優孝です。小学生時代は全国大会には出られなくて、Jrユースに上がったときの監督が酒井直樹さんでした。自分は酒井さんに出会ったので、プロになることができたと思っています。恩師ですね。

――当時のポジションは?

豊嶋:ウイングです。酒井さんは自分のことをすごく評価してくれて「好きなようにプレーしろ」と自由を与えてもらっていました。当時は1つ上の学年に混ざってプレーしていて、足が速かったので、「ドリブルでガンガン仕掛けろ。守備はやらなくていいから、攻撃でパワーを使え」と言われて、自信をつけてもらいました。

――当時の獲得タイトルは?

豊嶋:中3のときに、全国大会で3位になりました。そのときの監督が石川健太郎さんで、この方も自分にとって大きな存在です。石川さんからは献身的に走ることを学びました。酒井さんが監督をしていたときは、右サイドから中央に切れ込んでシュートを打つ役割を与えられていたのですが、石川さんからは「これからのサッカーは縦に仕掛けられないといけない」ということで、左サイドで使われて、縦に仕掛けられるようになりました。それがいまの自分のプレースタイルに生きています。

――全国3位のメンバーには、誰がいましたか?

豊嶋:攻撃陣は全員プロになっていて、FWが大宮アルディージャの泉澤仁。左サイドが自分で、トップ下がアルビレックス新潟にいた、奥山武宰士。右が福島ユナイテッドFCにいる橋本拓門、ボランチが柏レイソルの茨田陽生。当時はみんなが将来はプロになると思っていました。全国大会に出ても「日本屈指のタレント軍団」と称されていましたから。

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柏ユースに昇格し、苦しんだ高校時代

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