2016.01.05 Tue

Written by EDGE編集部

インタビュー&コラム

【久保田コラム】高校サッカー名勝負「聖和学園対野洲〜生き方は誰にも批判できない」のはなし

大好評の久保田コラム。今回のテーマは高校サッカー選手権1回戦で、スタジアムを埋め尽くす大観衆を集めた、聖和学園対野洲の試合についてです。(文・久保田大介/SUERTE juniors 横浜)

(この記事はSUERTE juniors 横浜ブログ「聖和対野洲 〜 生き方は誰にも批判できない」を再構成したものです)

第94回全国高校サッカー選手権1回戦「聖和学園 対 野洲」を観に行ってきた。

10年前にドリブル、逆取り、駆け引きを駆使したサッカーで全国優勝し、日本中に衝撃を与えるとともに、育成年代に大きな波紋を投げかけた野洲。高校サッカーのみならず、小中カテゴリーの育成現場を語るにおいても、野洲の優勝前・優勝後で分けてもいいくらい、野洲の優勝はエポックメイキングな出来事だった。

対して聖和はこれでもかというくらいにドリブルとボールタッチに拘り、ボール技術を極めている超異端の存在。この保守的な日本で聖和の異端が当たり前になることはきっとないのだろうけれど(なったら逆につまらない)そんな事は百も承知で、自らの拘りに大きな誇りと自信を持って取り組んでいるのだろう。そこには外からは決してわからない、尋常じゃない忍耐力と努力があるのだと思う。

高校サッカー界では共に異端。今大会出場チームの中でも、ボールと技術への拘りでは群を抜く存在であろう両校が、まさかの1回戦で当たってしまうという意地悪な運命。野洲の優勝から10年が経ち、野洲をずっと追いかけてきた聖和が引導を渡すのか、それとも野洲が返り討ちにするのか。それ以上に、両チームがどんな魅力的なサッカーを見せてくれるのか、そしてこの両チームが当たることで、今まで見たことのないものが見られるんじゃないか。そんな期待に溢れる、夢の対戦カードとなった。

スタンドは異様な雰囲気に包まれていた。高校サッカーであんな雰囲気は初めて。過去に行われた、あらゆる決勝戦以上のものでしょう。高校サッカーの1回戦でスタンドが超満員で埋まるというのは、3年前の伝説の試合「野洲 対 青森山田」(@駒沢)でもそうだったけど、あの時の雰囲気以上にスタンドの高揚感、この2チームの対戦によりこれから何が起きるんだろう、何が見られるんだろうというゾクゾク感に覆われながら、静かにその時を待つ、超満員の観客。今まで見たこともないものが見られるんじゃないかというワクワク感と、こちらの想像は確実に超えてしまうだろうという怖さと…。

試合はあっという間の80分だった。結果は衝撃の7―1。

この試合を見終えた大晦日の夜から今日まで、この試合のことをどう書くか、葛藤していた。自分の中で、この試合のことだけは生半可な軽い文章で終わらせるわけにはいかない、それではあまりにも両チームに失礼という思いが溢れてしまって。なので、頭の中で何度も描き始めては全削除し、また描いてやっぱりまたやめる…その繰り返し。それほどまでに、簡単に語ることができない試合だった。

拙いながらも、この儚い芸術品のような試合で感じたことを何とか自分なりにまとめて、書いてみたいと思います。もう少し、お付き合い下さい。

試合は序盤から、野洲が高いラインを設定して聖和の背後を果敢に突くための勝負を挑んでいた。しかし、聖和も自信を持って挑み、ドリブルで返す。最終ラインの選手までも、まずはドリブル。それは野洲もわかっていただろうけれど、敢えて引かずに襲いかかる。それこそ、野洲のプライドだったのだろう。

聖和が持つひとつのボールに対し、野洲の選手が4、5人集まるシーンも多々あった。

しかし、そこでも聖和はまずボールを奪われない。巧みで早いボールタッチで野洲の足をいなし、かわして引きつけて逆を取っていく。例え囲まれて足を出され、多少ボールがぶれたとしても、聖和の選手の方が、次の足が出るのが早い。だから奪われない。そこから、引きつけていなして超ショートパスでギャップを通し、少しづつ前進。それを繰り返しながら、徐々に野洲を無力化していく…そんな場面の連続だった。

つまり聖和にとっては、一見数的不利だけど、実はそれこそが圧倒的優位。これが肝。野洲の選手を集めたあげく、聖和の選手には見えている「背後の選手」へと、野洲の最終ライン裏を破るパスで急襲する。軸足の裏を通すパスをも駆使しながら。特に7番は巧かった…。

象徴的なシーンがある。

それは聖和のGKが叫んでいた 「いつでも裏は取れるぞ!」

まさにこれ。この言葉に尽きる。

彼のこの言葉を聞いた時、僕は「あぁ、これは聖和が勝つ」と思った。

上述したように、聖和は決してドリブルだけじゃない。引きつけていなすパス、引きつけて間を通すパス、ラインを破るナイフのようなパス。そして、ボールを奪った後の早いカウンターのパスも常に狙っている。

大晦日の夜に行われていた総合格闘技に例えるならば、闘争心剥き出しの野洲がマウントを取るけれど、殴りかかった拳をうまくいなされ、逆にその手を取り、握り、有効打を喰らわしながら、下から首と腕を取って三角絞めや逆十字を極める聖和、という感じだろうか。それでも強気にKOを狙おうと殴り続ける野洲の手を巧みなスウェーでかわし、素早く立ち上がってカウンターというハイキックを喰らわせる。

野洲にしてみたら、立ち上がって殴り合おうにもうまくかわされ、逆に有効打を浴びせられ、寝技に引き込まれ、そこでまた殴られるのか極められるのか、ドリブルなのかパスなのか…どちらか分からずにマウントを取られてしまう。そんな状態に、じわじわと陥っていく。僕にはそう見えた。

野洲を翻弄し続けた聖和のドリブルは、決してドリブルだけで終わらない。ただ魅せるだけのサーカスでもない。頭と目と身体が連動してしなやかに早く動き、野洲よりも先手を打っている。奪われた後に、すぐ2人目が囲んでまた奪い返してしまう、奪われることありきの距離感も、この日はほぼ完璧と言えるくらいの絶妙な間合いで連なっていた。そして、野洲の背後を取る「見えない味方」のことも、頭で見えていた。

もう一度「いつでも裏は取れるぞ!」(聖和GK)

この日の聖和のこと(野洲のことも)を「ドリブルだけ」と簡単に評していた人がいたけれど、うーん、いったい何を見ていたんだろうか。目に見える現象だけしか見えないのならば、本質は決して見えない。事実と真実は違う。目に見えないもの、その現象の行間に流れてる「見えないもの」に想像力を働かせれば、この両チームが繰り広げた、攻守にわたるハイレベルな「時間の奪い合い」が、おぼろげながらでも見えてくると思うのだけれど。

守備の巧さ、早さ、強さ、賢さ、シュートの巧さ。ドリブルという拳銃は、それらが伴って、初めて殺傷能力が生まれる。空砲ではなく、拳銃(ドリブル)に弾を込める。この日の聖和にはそれが全て備わっていた。だからこそ野洲を撃ち抜き、あそこまで観客を引きつけた。

そして忘れてはならないのが、野洲が、聖和の魅力を引き出したということ。対戦相手が野洲じゃなかったら、聖和の魅力があれ程までにあぶり出されることもなかったんじゃないか。

「野洲がリトリートするわけにはいかない」みたいなことを、山本監督が試合後に言っていたらしい。野洲にとってはその意地とプライドが、逆に仇となったのかも。でも野洲にとってそこだけは、決して譲れない一線だったのだろう。そこを嘲笑したり批判することは、誰にも出来ない。

野洲の10番・村上魁の野生味も、とても魅力的だった。牙を剥く闘争心と、少しでも歯車が外れたら崩壊してしまいそうな繊細さが同居しているようだった。だからこその魅力。生で観たのは初めてだったけれど、評判通り、彼には心奪われてしまった。これからの彼を、追っていきたいくらい。

繰り返すけど、高校サッカー史上に残る満員札止め、そしてあの雰囲気。刺激的なフットボールの香りが臭いすぎた三ツ沢の様相は、しばらく忘れられそうにない。

通路に人がはじき出されるほどにスタンドを埋め、隣接する団地にまで人を溢れさせ、超満員の観客を魅了したという事実。

聖和と野洲。両チームともに、この試合の勝者だったのだと思う。

両チームともに圧倒的な魅力。簡単に「スタイル」なんて言葉で片付けるほどの、生半可なレベルじゃない。野洲はもちろんのこと、聖和もあそこまで拘りを貫き、高めてきた過程で、あらゆる波風や高く厚い壁に何度も邪魔されてきただろう。後ろ指もさされたに違いない。でもそこで挫けず妥協せず、自らの信じるものを捨てずに貫いてきた姿勢は、好きな服を好きな色で選び着飾るだけの「スタイル」なんていう、陳腐な言葉では片付けられないはず。

野洲も聖和も、あそこまでいけばもはや「生き方」 の領域。生き方は、誰にも批判できない。真似もできない。口も挟んじゃいけない。

魅力的なサッカーを追求しながら選手を育て、人を育て、ましてやそれがたくさんの人を魅了する。

僕ら育成現場の指導者達が目指すべき、ひとつの理想でもあった。

両チームの選手達、関係者の皆さん、本当にありがとうございました。一年の最後に、本当に良いものを見させてもらいました。

そして僕は、大きな宿題をもらった気分だ。

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2回戦の聖和学園対青森山田戦で感じたこと

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